Studio Aalto

白のアトリエ、
スタジオ・アアルト

ヘルシンキ中心地から4番トラムに揺られて向かった先は、終点 Saunalahdentie 駅。ムンキニエミの穏やかな入り江の景色を眺めてから、トラムのレールをたどってもどり、住宅地にたたずむアアルト自邸を通って、1955年に建てられた白レンガのアトリエ〈Studio Aalto〉へ。
敷地の傾斜を活かしてつくられた中庭が広がるアトリエスペースには、パイミオチェアやスツール60、アルテックの名作椅子やテーブルがずらり。アアルトがデザインした照明や、曲げ木のサンプル、建築模型や貴重な図面も展示されています。
フィンランドの巨匠アルヴァ・アアルト〈Alvar Aalto〉がデザインした、偉大なプロダクトと建築の数々。アアルト財団のスタッフに案内され、白いカンバスのようなアトリエの中に入ると、タイムレスなデザインが生まれるまでの美しいディテールの世界が広がっていました。

2013 Photo & Text_Scandinavian fika.

Studio Aalto

スタジオ・アアルト

1955年、アルヴァ・アアルト〈Alvar Aalto〉はムンキニエミのアアルト自邸〈The Aalto House〉から歩いて10分ほどの場所に新しいアトリエをつくりました。ヘルシンキ工科大学やフィンランド国民年協会などの大規模プロジェクトを手がけはじめ、自邸の仕事場では手狭となってしまったためです。
閑静な住宅地の坂道にあるアアルトのアトリエ〈Studio Aalto〉は、気づかずに通りすぎてしまうようなところ。近くまで来ているはずなのに迷ってしまって地図を広げていたら、マリメッコのワンピースを着たおばあちゃんが「どちらまで?」と優しい声をかけてくれました。「スタジオ・アアルト」と答えたら、「??」な顔をしたので、もう一度「アールト」とオに近いアで発音したら、にっこり笑って「アールトはとっても日本人に人気なのね」とアトリエまで親切に案内してくれました。
現在はアアルト財団のオフィスとして使われているアトリエ。白レンガの外壁も、木の扉も、L字型の設計も、中庭があることも、アアルト自邸と同じ。木々のそよぎしか聞こえてこない静かな場所で、ガイドツアーが始まるのを待ちます。

製図室のあかり

アトリエの木の扉が開き、ガイドツアーが始まると、財団スタッフがアトリエ1階の食堂に案内してくれ、まずは CHAIR66 に座って、アアルトとデザインの歴史について語ってくれます。ツアー参加者は建築家志望らしき女学生と自分の2人だけ。大学の講義のような妙な緊張感があり、アアルトトークにも熱が入りました。内容は英語なのでチンプンカンプン。でも事前にアアルトの本を読んでいたので、「アルテック」とか「パイミオ」とか単語が出てくると、なんとなくどんなことを話しているか想像できました。
アアルトトークのあとは、ティートロリーがある階段を上って、アトリエ2階の製図室を見学。とても製図室とは思えないほどの広がりのある空間。真っ白な天井が傾斜して片流れの屋根になっているのは、ハイサイドから差し込む太陽の光を天井に反射させて、室内を明るくするため。ここでもアアルトの光が、スタッフの働く手を照らしています。

白のアトリエ

古代ギリシャの野外劇場を思わせる中庭が広がるアトリエ。緑の中庭には円弧を描くスクリーンの壁があり、アトリエ内部のガラスの壁はスクリーンと同じようにカーブを描いています。これは冬のあいだ、暖房のきいた室内から野外の中庭へスライドを映して講義を行えるように設計されているのだとか。
真っ白な吹き抜けのアトリエスペースの壁面にはツタを這わせ、プライウッドの曲げ木のサンプルが展示されています。アアルトの石像や建築模型、スツール60をはじめとするアルテック〈artek〉のチェアやテーブル、パイオミチェアがずらりと並び、ここはまるでアルテックのショールームやアアルトミュージアムのよう。この作業スペースは実験室のような空間で、プロジェクトが最終段階に入るとスタッフミーティングが開かれ、試行錯誤を繰り返していたそうです。コーナースペースに吊るされたデザイン照明は、明かりのテストを行うためのもの。天井のユニークな形をしたトップライトや、自然光を取り入れるための高い窓など、自然光を使ったアアルトの光の演出も見逃せません。
寒い冬の雪景色を思い起こさせる「白」のアトリエが、不思議とあたたかく心を和ませるは、中庭から差し込む太陽を受けて「白」がやさしく光を放っているから。光とともに、アアルトのデザインは今も息づいているのです。

Alvar Aalto|Paimio Chair

パイミオチェア

北欧では1920年代初頭から、アアルトが尊敬するスウェーデン建築家 エリック・グンナール・アスプルンド〈Erik Gunnar Asplund〉らを中心に新古典主義の建築が花を咲かせていました。しかし、アアルトが1933年に完成させたパイミオ・サナトリウム〈Sanatorium Paimio〉や、1935年完成のヴィープリ図書館は、それまでの新古典主義から機能主義へと大きく舵を切るものでした。国際的に高い評価を得たアルヴァ・アアルトのデザインは、その時から、フィンランド国民の大きな誇りとなったのです。
30代の若さで妻アイノとコンペを勝ち取ったパイミオの「サナトリウム」とは、結核患者の療養施設のこと。アアルトらしい波形のフォルムに、黄色の床と階段。ブルーの手すり。カラフルで明るいサナトウリムは、いかに患者が快適に過ごせるかを考えて設計されています。ラウンジに並ぶパイミオチェア〈Paimio Chair〉は、結核患者が楽に呼吸ができる座面の角度になっているのだとか。アームと脚が、フィンランドバーチの成型合板でつくられたパイミオチェア。この椅子の成功が、のちにアルテック創設へとつながっていくのです。

オーロラの壁

トゥルクからヘルシンキに移り、自邸を完成させたアアルトは、フィンランドを代表する建築家として活躍の場を世界へ広げます。1939年に開催されたニューヨーク万博では、フィンランド・パビリオンの「オーロラの壁」が話題となり、アアルトはアメリカでも大成功を収めました。
その後もマサチューセッツ工科大学〈MIT〉の教授として招かれ、多忙を極めるアアルトは、妻アイノから届く手紙だけを心待ちしていたといいます。

1948年秋、ボストンから病の妻に送った手紙には
「アメリカという国は、どうも私には合わないようだ」とつづられています。
「今、一人で多くの図面を描いているのだが、昔、コンペとかいろいろな設計を二人で協力しながらやっていた頃を思い出してしまうよ。最高の時代だったね。あんな生活をもう一度取り戻そうじゃないか」

森の木々をつかい、湖のゆらめきや、オーロラのうねりを形に宿してきたアアルト。その美しさと同じくらい、ノスタルジーを感じてしまうプロダクトデザイン。
美しい時。美しい時代。タイムレスなデザインとは、もしかしたら、確かな時を刻んでいるものなのかもしれません。美しい記憶とともに、ずっと、心に宿るもの。

Alvar Aalto and Elissa Aalto

エリッサと赤の時代

最愛の妻アイノ亡きあと、故郷ユヴァスキュラ〈Jyväskylä〉のセイナッツァロの町役場を設計することになったアアルトは、1952年、地中海沿岸地方に見られる中庭を取り入れた赤レンガのタウンホールを完成させます。アアルトの戦後の作品は赤レンガを多く使っていることから、「赤の時代」と呼ばれるようになりました。
「赤の時代」の始まりとなったセイナッツァロの町役場で、運命的な出逢いが待っていました。アアルトは設計担当だった若い建築家エリッサと恋に落ち、1952年に再婚。アイノの死で、自分を見失いかけていたアアルト。彼の心の支えとなったのが、23歳年下のエリッサ〈Elissa Aalto〉でした。
エリッサはアイノのことを尊敬しており、自邸でアイノが愛用していたピアノをそのままリビングに置いていたといいます。

1976年にアルヴァ・アアルトが亡くなったあとはエリッサが仕事を引き継ぎ、事務所を運営しました。
アアルトとアイノが、どれほどイタリアを愛していたか知っていたエリッサは、アアルトの最後の夢を叶えるため、イタリアへ飛びます。そして、1700年代の古代の柱頭を見つけ、フィンランドへと持ち込み、ふたりの墓石の横に並べたのです。

Alvar Aalto

1898-1976|Finland
©︎ Alvar Aalto Museum

スタジオ・アアルト

アクセス
アアルト自邸〈The Aalto House〉から
西へ徒歩約10分。

アアルト財団
www.alvaraalto.fi

スタジオ・アアルト ガイドツアー
ALVAR AALLON ATELJEE
〈GUIDED TOURS〉


WEB

artek

アルテックとスツール60

時代を超えた
不朽のロングセラー


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